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【第3回】弥生時代と青銅器・鉄器の利用

歴史ロマン
この記事は約20分で読めます。

弥生時代といえば、弥生式土器と青銅器・鉄器について言及しないわけには行くまい。というわけで、第3回目は土器や青銅器、そして鉄器について。ただ、弥生式土器にせよ青銅器にせよ、分かることはそんなに多くないんだよね。

吉野ヶ里遺跡 弥生時代中期 青銅器製造に使った鋳型見つかる

02月14日 18時30分

弥生時代の集落跡が残る吉野ヶ里遺跡で、新たに弥生時代中期の青銅器の製造に使われた「鋳型」2点が見つかりました。

NHKニュースより

と思って調べて見たら、意外に最近にも新しい発見があったらしいね。考古学はなかなか面白い。

  • 土器の違いは作り方の違い
  • 銅鐸と銅剣は広まらなかった
  • 駆け足でやってきた鉄器時代
  • 釣針と古事記
  • 弥生時代の武器
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土器・土器な話

弥生土器というカテゴリー

学校で習った印象だと、「弥生式土器」というカテゴリーがあって、「縄文式土器」とは形状や模様が異なるんだ、というような説明であったように記憶している。

実際に、Wikiなどを眺めてみると、「縄文土器と比べると形・装飾が簡素で、高温で焼かれて明るく硬い」と評されることが多いと書かれていて、いくつかのサイトをみてもそんな感じの説明が多い。

代表的な弥生土器を2つほど紹介したが、こんな感じの素焼きの土器という印象が強いのは事実である。ただ、実際にはかなり地域性があるようで、地域によって様々な特色があり、かつ縄文土器との線引きも難しいという研究者もいるようだ。

他にも、在来土器に朝鮮半島の無文土器の製作技術や彩文手法を採り入れて成立したとする説が有力だという説明も多い。

ただ、出土する朝鮮半島製の無紋土器の大半はこんな感じの無骨なものが多いんだよね。これならまだ縄文土器の方が優れていると思うんだが……。

なぜ、縄文土器を使っていた縄文人達が、装飾面で劣る似たような製造方法の弥生土器を作るようになったのか?それも、デザイン性に劣る無紋土器を真似るような話になったのか?「無文土器の製作技術や彩文手法を採り入れて成立」という説明ではどうしても納得できない。

もちろん、見た目の優れた無紋土器もあるのだが、性能的に優れていたと言うことなのかもしれないが。

回転台の登場

で、色々調べて見て1つの説明に行き当たり、「ああなるほど」と腑に落ちた。

前回、縄文時代の時にもこんな説を披露した。「専門職人が作る美術性の高い一品物と、普段使いが容易なように薄くて軽く、より強度があるものを目指した大量生産品」の違いが縄文土器と弥生土器の違いであると。

その話を補強するような話ではあるのだが。

弥生土器は、稲作文化とともに発達した土器で、縄文土器と比べて形や文様がとても簡素です。回転台を使ってつくられたことと、櫛で描いた文様が特徴です。また、弥生土器は用途に応じて、はっきりと形が決まっていました。
※回転台:土器の形を整えたり、土器の紋様を整えるときに使う。土器の向きを変えたり、回転させるために使う台

松本市立考古博物館のサイトより

回転台の存在である。

無紋土器作りにソレが使われたかどうかは不明だが、「タタキ技法の発達」だとか「ケズリ技法の使用」とか、そんなことよりも回転台の登場が土器作りに大きく影響したのではないか、とそのように考えた次第。

http://www.ehime-maibun.or.jp/kankobutsu_hoka/maibun_ehime/maibun_ehime_029/maibun_ehime_029.PDF

こちらの説明でも、弥生土器に関する様々な説明が行われているのだが、何れも回転させることを前提にして作られる話であると整理できそうだ。

縄文土器が個性的な形をしているのに対して、弥生土器が模様などがなく簡素な作りになった背景に「作り方」が影響しているのであれば、まさに回転台が登場したからこその出来事だったのでは、と。

回転台を用いることで綺麗な左右対称の形状が成形しやすくなり、土器職人に求められる超絶技巧のハードルは下がったと考えられる。何より、土器を作るのに必要とされる時間が短縮された可能性が高い。恐らくはそういうことなのだろう。

尤も、縄文時代の土器も綺麗な形状に作られたモノ、高台の底面に葉脈の痕が付いているモノがあるので、回して作った可能性は高いと思う。

この2種類は、何れも縄文時代の土器なのだが、恐らくは縄文時代において土器製作に利用されていたであろうと言われている。表面に粘土が付着しているモノも出土しているようだしね。

が、弥生土器の時代にはもう少し高度な回転台が登場したのだと考えると、なんとなくしっくりくる。

弥生時代の回転台

では、弥生時代の回転台とは?といえば、おそらくは金属製の回転台が登場したのでは?と、そのように考えている。

歴史的に分かっているのは紀元後4世紀~5世紀に登場するロクロが陶器作りに大きく影響したことで、正倉院文書の「造仏所作物帳」に「近江の輸値工」なる記述が見られるという。

だが、形状からして恐らくは弥生土器にも回転台が用いられていたと考察する研究者は少なくないようだ。問題は、ソレっぽいモノが出土していないことなのだが……。個人的な考えとしては青銅器の伝播が影響しているのだと思う。金属を用いた回転台があれば、台形土器のようなモノを使うよりも遙かに真円度の高い土器を作ることが可能になる。金属同士であれば、油さえ注しておけば滑らかに回転する。

実際、世界的に見れば青銅器の広まりとともにロクロが発明され発展したとされている。紀元前6000年前から紀元前2400年前の間に発明されたとされているロクロだが、当然ながら支那でも回転体(ロクロ)を用いたと思われる土器が見つかっている(紀元前2600年頃)。

そうであるのならば、既に支那との交易をしていた弥生時代の国(日本)が導入しないという話は不自然で、多数の渡来人が日本に来ていたという話もあるため、「あったのでは」と考える方が妥当だろう。

青銅器時代が訪れなかった日本

銅鐸の謎

弥生時代の青銅器といえば、銅鐸であろう。

初期の簡素な銅鐸から次第に豪華で大きな作りのモノに変わっていくのだが、何に使われていたのかはハッキリ分かっていない。

そもそも「鐸」とは、支那において使われた青銅製の楽器で、日本においては古くから「銅鐸」と呼ばれていたことが「続日本紀」などの記述から明らかになっている。

「大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之高三尺口徑一尺其制異常音協律呂勅所司蔵之(大倭宇太郡波坂郷の人、大初位上村君東人、銅鐸を長岡野の地に得て献る。高さ三尺、口径一尺、その制、常に異にして、音、律呂に協う。所司に勅して蔵めしめたまふ。)」

その記載ぶりから、鳴らして使ったんだろうな、と言うことくらいは分かっているが、何故か記紀には特に言及がない。そして、出土している銅鐸は、胴体部の外面を叩いた痕跡がない。このために、通説では祭儀の飾りとして使われていたのだろうと推測されている。

そして、住宅跡や墓からの出土例はほぼなく、複数個が横たえた姿で出土することから、祭儀に使われたという意見にも異論はある様だ。面白いことに、しばしば破壊された状態で出土するケースもあって、これは縄文時代の土偶と少し似ている。つまり、神への供物の代わりだったのではないかということだ。あれほど作られた縄文土偶もあっという間に姿を消したし、銅鐸がその代りを務めた可能性はある。尤も、銅鐸は全国的に広まったわけではないのだが。

ああ、あと、ちょっと形が卑猥なので言及しなかったのだが、縄文時代の遺跡から発掘される石棒も土偶と一緒に消えたらしい。

Wikipediaより

女性を象ることの多かった土偶に対し、こっちはモロ男性がモチーフとなっていると思われる。何に使われたかはさっぱり不明だ。ただ、日本各地にこの手の御祭神というのは結構残されているし、外国でも各国に似たようなのがある。男性にとってはちょっと嫌な話だが、土偶と同様に破壊された形で出土するケースが多いようだ。

銅矛の出土

さて、日本で使われる青銅器は、銅鐸の他に銅矛(及び銅剣、銅戈)、銅鏡がある。

銅鏡は文字通り鏡としての利用がなされたようだが、しかし高価なシロモノであったので身分の高いものが持つアイテムで、どちらかと言うと祭祀に使われる事が多かったようだ。特に、仿製鏡ぼうせいきょうと呼ばれる国産の銅鏡は品質が悪く、鏡としての利用よりは呪具としての利用が考えられる作りになっていたようだ。

後の世まで残った銅鏡(そのうち和鏡と呼ばれるアイテムとなる)と比べて、先に挙げた銅鐸は使い道がさっぱり不明。そして銅鐸と同じく使い道が良く分かっていないのが銅矛だが、こちらも祭儀に使われた可能性が指摘されている。

興味深いのは、銅鐸と銅矛の出土傾向が異なるということだ。

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銅鐸に比べて銅矛類は九州や四国に集中していることが分かる。出土状況から銅矛、銅剣、銅戈(どうか)は何れも武器として使われるよりも、祭器または副葬品としての使用が多かったようだ。

日本の場合、材質などから紀元前2世紀の朝鮮半島からの伝来である事が分かっているが、後に支那からの輸入が中心となったようだ。この時代に日本の銅山は開発されておらず、日本で最初に発見された銅鉱脈は紀元後708年に発見された秩父山のもので、それまでは輸入に頼っていたようだ。

日本全国で銅鐸や銅矛などが見られない理由は、素材を輸入に頼っていたことも原因のようだ。銅鐸は何故か3世紀に入ってからバッタリと作られなくなり、銅矛類に関しても弥生時代後期以降見られなくなる。

面白いのは、銅剣や銅矛、銅鐸などの製造は日本でも紀元前2世紀頃から行われていたようだけれど、その多くは実用品ではなく祭器として用いられていたと考えられる点だ。

鉄器の伝播

こうした青銅器の広まりを阻害したのは鉄器の広がりである。

日本で見つかった最古の鉄器は紀元前10世紀頃のもので、しかし日本ではたたら製鉄が始まる6世紀までは殆どを輸入品に頼っていたとされていた。

弥生時代に大規模鉄器生産 淡路島の舟木遺跡が国史跡に

2020年11月21日 10時00分

国の文化審議会は20日、弥生時代に鉄器生産を大規模にしていた淡路市の舟木遺跡を国史跡に指定するよう文部科学相に答申した。弥生時代の拠点的な集落の実態を示す重要な例という。国史跡は県内で55件目になる。

朝日新聞より

ところが、国内では幾つも鉄器生産に関する出土が見つかって、実は弥生時代後期には大規模な鉄器の国内製造拠点があったことが判明する。どうやら朝鮮半島などから鉄素材を輸入して加工する工房が弥生時代中期には存在していたらしい痕跡も見つかっている。大規模な拠点は弥生時代後期になってからのようだが。

有名なのはカラカミ遺跡の地上炉だ。

弥生時代に鉄精錬か、壱岐に地上炉跡

2013年12月14日 21:25

長崎県壱岐市教育委員会は14日、弥生時代の環濠集落跡「カラカミ遺跡」(壱岐市)で、鉄生産用の地上炉跡が見つかったと発表した。弥生時代の地上炉跡は国内で初めての発見。専門家は、弥生時代には明確に確認されていない精錬炉の可能性があると指摘、市教委は今後も調査を進める。

日本経済新聞より

ご存じの方も多いと思うが、壱岐や淡路島の名前は、実は「古事記」に登場する。特に淡路島はおいて(「日本書紀」では異なる)最初に作られる土地である。そう、「国生み」において、伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの二柱が天浮橋あまのうきはしに立って天沼矛あめのぬぼこを使って於能凝呂島おのごろじまを作り、その島で最初に生み出したのが淡路島、次に四国、隠岐島、九州、壱岐島、対島、佐渡島をつぎつぎと生み、最後に本州を生んだとされている。

於能凝呂島は実在が疑われているが、それ以外の「国」は伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの二柱によって生み出され、その一番最初が淡路島であったという話である。不思議な順番ではあるが、これは「左回りだ」という話を理解すればなるほどその通りなんだろうということにはなる。

まあ、「こんな説もあるよ」という程度の話で、別の理由があったかも知れないけれども、淡路島が一番最初というのは意外である。

そして、淡路島の舟木遺跡を平成19年~20年にかけて調査し、弥生時代後期に営まれた12棟もの鍛治かじ遺構が発掘された。これは2020年の記事である。

遺跡では鉄器を生産する鍛冶工房4棟を含む20棟の竪穴建物が発見され、魚を突くヤスや釣り針など170点を超える鉄器も出土。九州産のヤリガンナのほか、中国の後漢鏡の破片も見つかり、瀬戸内海を介した広域的な交易や鉄器生産を担ったとみられている。

朝日新聞より

始まりの島で弥生時代に大規模な鉄器生産が行われていたというのは、なかなか意味深いことだね。

釣針の登場

ところで、「古事記」で「釣針」といえば、日本人であればおなじみの海幸山幸の話を思い出すのではないだろうか。

「古事記」では海幸彦として火照命ほでりのみこと、山幸彦として火遠理命ほおりのみことが登場する。この時に火遠理命が釣針を無くしてトラブルになるのだが、火照命が激怒したので火遠理命は自身の持つ十拳剣とつかのつるぎを鋳潰して千の釣針を作る。

ここで気になるのが、「剣」と「釣針」である。剣は青銅器の可能性もあるが、釣針となると鉄製でないと話にならない。縄文時代には骨製の釣針もあったようだが、大量に作るとなると骨でというわけには行かない。

淡路島の遺跡から多数の鉄器の釣り針が出土していることから考えても、神話の時代に既に鉄の存在はあったと思われる。

ただ、火照命と火遠理命の末裔はそれぞれ九州地方にいると言われているから、淡路島との直接的な関係があるというのはちょっと無理がある。天孫降臨の地も九州高千穂ってことになっているからね。ただ、無関係というには少々状況証拠がそろい過ぎている気もする。

例えば、無理難題を押し付けられた火遠理命は一旦は海神の元に身を寄せるけれども、海神のところで結婚した相手の豊玉毘売命とよたまひめに助言をもらって、元の国に戻り火照命と対峙する。この時に、田んぼを高いところに作ったり低いところに作ったりするわけだ。更に、豊玉毘売命からは無くした釣針の他に鹽盈珠しおみちのたま鹽乾珠しおひのたまを貰うのだけれど、これがどうも津波っぽい。

弥生時代にも津波の痕跡が見つかるので、あながち違うとも言い難い。

弥生・古墳時代の洪水痕跡が語りかけるもの - 岡山県ホームページ

また、津波の話は銅鐸の変化にも現れていると言われている。

弥生中期を終わらせた巨大地震
滋賀県守山市と野洲市の間を流れる野洲川下流域には、弥生時代の遺跡が集中しています。米つくりの始まりの服部遺跡、大規模環濠集落の下之郷遺跡、玉作りの市三宅東遺跡、独立棟持柱付大型建物が立ち並ぶ伊勢遺跡、多量の銅鐸が出土した大岩山などです。弥生...

一説には豊玉毘売命を卑弥呼と同一視するか、壱与(この場合は台与と解釈するらしいが)と同一視する向きもあるようだが。弥生時代の話であると仮定すると、色々面白いことも分かってくる。

まだ、ハッキリした時期は分かっていないが、徳島県の黒谷川宮ノ前くろだにがわみやのまえ遺跡や黒谷川郡頭くろだにがわこうず遺跡では、弥生時代後期(紀元後1世紀~2世紀)に液状化現象の証拠が発掘されており、この時代に巨大地震があったことが示唆されている。この地震の正体は南海トラフ地震であったとされ、そうだとするのであれば巨大な津波に襲われた証拠とも言える。

そう、淡路島に釣針と津波と来れば海幸山幸の話が示唆されるわけだ。

淡路島と「国生み神話」との関係は? 弥生後期「舟木遺跡」を徹底解明へ
兵庫県淡路市教委は9日、弥生時代後期(紀元1~2世紀)の土器などが多く出土している同市舟木の「舟木遺跡」を平成27、28年度に発掘など総合的な調査を実施する…

似たような事を考える人はいるようで、現時点で確実な証拠が出た訳ではないが、候補の1つとしては考えても良いのではないか。そもそも、古事記の編纂が奈良で為されたということは、周辺地域の話を色濃く受け継いでいる可能性は高い。太安万侶おおのやすまろがどのような考えで編纂を進めたかはわからないが。

鉄器の出土

ちょっと話が逸れたが、2番目に出てくる四国でも鉄器は多数見つかっている。そして、鳥取でも弥生時代最大の鉄矛の出土が確認された。

弥生時代最大の鉄矛出土、鳥取/祭祀で地面に突き刺す?

2020/11/02 21:16

鳥取県倉吉市教育委員会は2日、同市の中尾遺跡で弥生時代中期(約2100年前)の竪穴住居跡から国内最大の鉄矛(長さ54・3センチ)のほか、板状鉄斧(同27・5センチ)、鋳造鉄斧(同11センチ)が出土したと発表した。

四国新聞より

こちらは弥生時代中期の遺跡で、どうやら祭器として使われたらしいという分析がなされている。

つまり、弥生時代においては青銅器が広がる前に鉄器が広まっていき、結果的に青銅器の全国的な広がりはなく終わってしまう。青銅器よりも鉄器の方が大体の場合において金属としての性能が上ということもあって、これは仕方がない側面がある。

これが弥生時代の鉄器の県別出土数だが、銅矛や銅鏡の出土傾向と比べても随分と広範囲に広がっていることが分かる。弥生時代に水田稲作が広まった背景には、優れた農機具の存在が欠かせないわけで。鍬や鋤として鉄器が使われたからこそ、都市の発展につながったのだろう。

吉野ケ里遺跡の鉄製農具(鋤先および鍬先・佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

ただ、鉄器の普及は人々に幸せだけをもたらした訳ではない。

弥生時代の武器

弥生初期に見られる石器

おそらくは縄文時代末期から始まっていた水田稲作の発達によって、土地の奪い合いも激しくなったと思われる。

弥生時代初期に見られるのが石剣や石鏃といった、石でできた武器が副葬品から見つかることがある他、傷を負った人骨や体に刺さって折れたとみられる武器の先端なども見つかっている。

こうした武器は朝鮮半島由来であると思われるのだが、と呼ばれる支那の武器や環状石斧かんじょうせきふと呼ばれる東南アジア系の武器も見つかっており、は後に銅戈どうかのような祭器として用いられるようになったようだ。そして、興味深いことに盾も出土している。後の時代には盾は殆ど用いられなくなったが、この時代は色々なところから色々な武器や防具、戦術が伝わってきていたのかもしれないと思うと、なかなか興味深い。

しかし、そもそもは戦車を使った戦い前提で開発された武器だが、日本の戦いで有効だったかは微妙だ。使えなくはないのだろうが、馬も戦車もない環境でを振り回すという需要が良く分からない。それでも出土するほどあったのだから、何か限定的な使い道はあったかもしれない。

弥生時代の青銅武器の鋳型、全国で初めてセットで発見  福岡の遺跡

2023年2月11日 13時00分

福岡市博多区板付6丁目の高畑遺跡で、弥生時代後期前半(紀元1~2世紀ごろ)の青銅武器「広形銅戈ひろがたどうか」の鋳型の両面が発見された。市によると、実際に使用された痕跡のある鋳型がセットで見つかるのは全国初という。

朝日新聞より

弥生時代後期の銅の鋳型も出土しているので、製造されていたことは間違いない。ただ、恐らくは広型銅なので祭器を作っていたのだろうし、外国にはこの手の特殊用途化した銅は見られないので、日本国内で用いるために製造されていたのだろう。

銅剣も実用されていた

そして、実用品として殆ど使われなかった青銅器だが、全く使われなかったということではないようだ。

佐賀県吉野ヶ里遺跡から出土した銅剣(青銅器)

このあたりの形状のものは、恐らく実戦に用いられていた可能性があるとのこと。この手の細身の銅剣は使用されていたと思われるが、ある時大量出土して歴史家を驚かせた。

讀賣新聞より

なんと300本以上の銅剣が荒神谷こうじんだに遺跡で大量出土したのである(2003年)。時代は弥生時代中期とされており、銅矛16本、銅鐸6個と共に出土した。国譲りの際に埋められたという説があり、「出雲王国」の存在を裏付ける出土だとされているが定説は無いようだ。

だが、上で紹介した銅剣の分布図を見ても、出雲、九州、四国でそれぞれ有力勢力があったことは間違いないと思われ、銅鐸が紀伊半島中心に分布しているのとは対照的である。

鉄剣も出土

そして、祭器として主に用いられていた銅剣と比べて、「実用性」の高い鉄剣も出土している。

東郷池を望む湯梨浜町の宮内みやうち第1遺跡では、弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓よすみとしゅつがたふんきゅうぼの埋葬施設から鉄剣と鉄刀が出土しています。いずれも弥生時代のものとしては国内最長クラスの優品です。鉄剣は抜身で、平絹へいけん(平織の絹)で幾重にも包み棺に納められていました。鉄刀は、意図はわかりませんが、素環頭そかんとうと呼ばれる柄頭を飾る環状の部分が切り取られていました。この鉄剣と鉄刀は分析の結果、中国前漢時代に開発された製法により、大陸で鍛錬された可能性が高いことが分かっています。

鳥取県のサイトより

この鉄剣が何に使われたかはハッキリしていないが、少なくとも大陸から多数の鉄製武器の輸入を行っていた可能性が高いことは分かった。

鉄剣・鉄刀(宮内第1遺跡)

支那は秦王朝(紀元前221~前206年)が衰退し、前漢、新、後漢、そして三国志の時代(3世紀)を迎えるまで、まさに戦乱の時代が続いていた。秦王朝の前も春秋・戦国時代だしね。

当然、武器や戦術は発達し、それが海を渡って日本に伝えられていた。その証拠も残っているわけで、農業生産が始まれば争いも激化する事になる。だからこそ、その手の武器が沢山出土するわけだ。

まとめ

ようやく、武器の話に辿り着いたのだけれど、弥生時代は争いの時代だったという話は、なかなか理解し難い部分はあるように思われる。

しかし、第2回で言及した通り、中央集権的な国家が乱立すれば、当然ながら争いも起こる。

そして、それが「倭国大乱わこくたいらん」に繋がっていき、「魏志倭人伝」によればそれをおさめたのが卑弥呼という事になる。いや、卑弥呼がおさめたというよりは、卑弥呼を女王とすることで平和な時代が訪れたというわけだ。

これが世界の神話の中でも珍しい女性神が最高神である理由となった、などという事を考えるのは、少々ロマンに走り過ぎだろうか?

さておき、弥生時代はこの辺りまでということにしたかったのだけれど……。実はあと1回分書いているんだよね。まだ途中書きではあるんだけど。ただ、高い確率でお蔵入りになりそうである。理由は、題材が記紀に関するもので、上手く結論に着地できないから、というもの。

まあ、記紀の話なので、もっと後回しでも良いのだけれど、神話の時代はどう考えても弥生時代と重なってくる。触れられるのであれば、ぜひ触れておきたいテーマではある。

追記

日本最古の鉄器に関するコメントを頂いたのだが、これが結構波紋を呼んだ話であってちょっと面白い話なのである。ややこしいので本編では触れなかったが。

石崎 曲り田遺跡

稲作開始時期を知る貴重な手がかりとなった集落遺跡です。1979年の発掘調査で稲作の始まりを裏付ける土器群や石器、竪穴住居、支石墓、甕棺墓などが発掘されました。

糸島観光サイトより

福岡県の曲がり田遺跡は弥生時代初期の遺跡なのだが、ここから鉄器が見つかっている。曲がり田遺跡で発掘されたものは大きさが 3.0 x 1.5cm、厚さ4mmで鋳造板状鉄器だと判断された。

鋳造鉄斧の破片に関しては、支那の春秋戦国時代に製造されたモノであると推定されている。

日本書紀の解明のサイトより

二条突帯鋳造鉄斧が支那の春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)に製造されたもので、朝鮮半島では殆ど出土せず、日本に直接伝わったモノと推定されていた。

  1. 中伏遺跡   福岡県北九州市 弥生時代中期初め
  2. 比恵遺跡   福岡県福岡市  弥生時代中期後半
  3. 上の原遺跡  福岡県朝倉町  弥生時代中期中頃
  4. 下稗田遺跡  福岡県行橋市  弥生時代前期後半~中期中頃
  5. 庄原遺跡   福岡県添田町  中期中頃
  6. 大久保遺跡  愛媛県小松町  前期末~中期前葉
  7. 西川津遺跡  鳥取県松江市  中期
  8. 青谷上寺地遺跡 鳥取県鳥取市 中期中頃~古墳初め

鉄器、特に鉄製武器は支那の影響を強く受け、二条突帯鋳造鉄斧などの武器が九州周辺地域で広く出回るのが弥生時代中期だという話に繋がる。弥生時代の血なまぐさい空気が伝わってくる話でもあるのだが、これの前提が少々崩れ始めた。

困ったことに炭素14年代測定法を使うとこの年代がズレてしまうのである。その1で説明したように、従来考えられていたよりも弥生時代の開始時期は500年も遡る可能性が出てきた。そうすると、弥生時代が紀元前1,000年~紀元後300年頃までということになり、弥生時代の初期の曲がり田遺跡から鉄器が出てきたことで、支那において春秋時代中期(紀元前600年頃)以降の普及だとされていた鉄器が日本に伝わったというシナリオは崩れ去ってしまう。

鉄器の年代測定は難しく、日本においては海洋リザーバ効果(実際よりも時代が古く出てしまうという効果)の影響があるのだとされている。

一方で、支那よりもロシアの沿海地方の方が鉄器の普及が早く、紀元前1,000年頃に鉄器時代を迎えていたとされているので、鉄器の普及ルートに関しても現在言われている説の信憑性が揺らいでいるのだ。

もう1つ最近のニュースとして、こんな話が出てきた。

発見!日本最古 八日市地方遺跡出土の「柄付き鉄製ヤリガンナ」

更新日:2023年12月01日

先般、大きなニュースが飛び込んできました。北陸新幹線建設にともなって公益財団法人石川県埋蔵文化財センターが発掘調査を進めていた八日市地方遺跡から、日本最古となる柄(え)がついた状態の鉄製鉇(ヤリガンナ)が発見されたのです。

小松市のサイトより

少々紛らわしい表現で、日本最古なのは鉄製鉇てつせいやりがんなであって、鉄器ではない。だが、時期は弥生時代中期(紀元前400~紀元前100年頃)だとされていて、これが一体何処から伝わったものなのか明らかにされていない。

弥生時代は玉作と呼ばれる碧玉・緑色凝灰岩の管玉作りが近江で盛んに行われていて、石川県のこのやりがんなもおそらくは玉作に用いられたと考えられている。

支那でも前漢時代(紀元前206年~紀元8年)の遺跡からやりがんなが出土しているので使っていたことは間違いないのだけれど、最先端の工具が日本にいち早く伝わっていたというのは、ちょっと納得し難い部分もある。

青銅器時代の訪れが遅かった日本の鉄器時代の幕開けというのは、なかなか謎に満ちているね。

コメント

  1. 河太郎 より:

    日本最古の鉄器が気になりますねぇ。
    紀元前10世紀ですって?
    たしか中国で鉄製武器が本格的に流通し出したのは前漢あたりからですよ。
    始皇帝の秦は実はかなり精度の良い青銅器を武器に用いていた。呉越の越王勾践の青銅剣は発掘された時に二千数百年経っていたのに、重ねた新聞紙をバッサリと切断したそうです。やって観るとわかるけれど筒状に丸めて固めてない何枚もの紙を切るのは難しい。繊維が絡まりますから。ヤーさんが水に浸した雑誌をサラシで腹に巻いてカチコミしますでしょう? あれはそういう用途です。
    なので青銅武器は切れ味など鉄器に敵わないですが、出来の良いものはかなり使えるらしい。
    とはいえBC10Cすよ。それ中国で殷から西周に代わる頃では? 西アジアとかならともかく凄い事てすね。隕鉄とかを利用して作るたのでしょうか?
    弥生時代なに気に凄いですね。

    • 木霊 木霊 より:

      最古の鉄器ですか。
      ちょっと、痕からトピックスの整理をするかもしれませんが、取り敢えずは追記で書かせて頂きました。

      面白い話ですよね。

  2. 河太郎 より:

    どーも記事の写真をしげしげ観ていて想うのは、弥生土器って装飾は簡易だけど、美術的にも美しいのでは?
    ゴシックやバロックのゴテゴテ感が好きな人もいれば、現代建築のすっきりと無駄を省いたデザインが好きな人もいる。
    どっちが良いではないですよ。ただ我が国はワビ・サビを重んじ、シンプルで美しい日本刀や茶道、枯山水庭などを産んできました。そういう美学から弥生土器は美術的に「和の感性」で美しいと想うんですね。
    で、それは微妙な歪みあるものを例にあげても、滑らかな曲面で作られているから、そのシンプルさが美になってると。
    つまり木霊様の仰る「ろくろ、回転台」の進歩あってこその美しさと想うす。
    近代兵器が中世のそれに比べてシンプルに美しい(人によるが)のは、「大量生産品だからこそ」の簡略化が逆に人の心を打つからと思うです。
    そして火焔土器や、なんでしたっけ古代宇宙飛行士説の目玉のデカい土偶のような装飾性は、祭儀の使用と、やはり狩猟採集に関わっていた者の信仰(トーテム信仰。モンゴルの蒼き狼みたいの)の影響と想うんですよ。
    この時代の人が「日ノ本の民」という統一意識を持っていたかは疑問ですが、
    生活様式が変わり、人の美に対する感覚も変わったのでは? たぶんですが、
    女真族系の海洋狩猟民の文化が入ったてあろう東北と、陸稲も含めて米を持ち込んだ人々と、海から来たポリネシア?系の文化と3つくらいあったのてはないすかね。

    • 木霊 木霊 より:

      弥生時代の日本人に機能美という概念があったかは不明ですが、「分かっていて作った」としたら、というロマンは感じます。
      ただまあ、あれだけ出土する芸術方面に振った縄文土器があっという間に弥生土器に書き換えられるというのは、何かしら理由があったのでは?という発想であります。

  3. 河太郎 より:

    鉄製戦斧については、木霊様の仰るとおり、戦車を用いない日本(地形的にムリ)では戈の意味ない。しかし、戦斧はもう殷時代から用いられているし、バイキングみりや解るとおり近接戦闘で威力ある。素人でも使いやすい。(最強はシャベルな気がする????)
    なにより紀元前700あたりとなると、未だ
    片刃の「刀」でなく両刃の「剣」が中国でも主体です。「剣」は中央が最も厚みある構造になるので、左右バランスを考えた時に、どうしても片刃の刀より両側が薄くなる。刀身に厚みを持たせやすい「刀」に比べて折れやすいんですね。
    とくにこの時代は鋳鉄てあろうから。硬さはあるが衝撃に脆いはず。
    と考えると、片刃でも良く分厚い鉄塊でぶん殴る「戦斧」がもてはやされたのも理解できます。実際、槍が廃れていた(薙刀が主)鎌倉から鎌倉幕府崩壊あたりまでは戦斧はよく使われました。金太郎がマサカリ(実はあれは斧)担いでいますよね。
    これらは良さ気な武器を大陸から輸入したりしていた証と思われ、対価として朱(硫化水銀)や漆や翡翠を売っていたものと想うんですね。

    • 木霊 木霊 より:

      戦斧は、なかなか凄いですね。
      キャンプで薪割り用に手斧を用意したのですが、これがなかなか凄い。こんなものでぶん殴られたら刃が付いてなくて切れなくても、効果はかなり凄いんだろうなと。重量のある斧を振り回すことができれば、破壊力は推して知るべきですわ。